困りごとから始まる、
溶接進化の螺旋
100 年前、日本の溶接は「補修の道具」だった。棒は町工場で天日に干され、船の首は嵐の海で切れ、戦後には「米国に 30 年遅れている」と言われた。そこから 10 年で造船世界一になった。
年表で読むと発明の歴史に見える。でも編集部が 100 年を並べて気づいたのは、順番がいつも同じだ、ということだった。先に困った人がいて、技術は後から来る。同じ場所に戻ってくるのに、戻るたびに 1 段上がっている。いま現場で起きている変化は、その螺旋の何周目なのか。
何が起きたか
溶接学会(一般社団法人)は、1926 年 5 月 29 日に「電気鎔接協会」として発足した。今年で創立 100 年になる。9 月 15 日から 17 日には秋季全国大会(第 119 回)が東京・江東区の TFT ビルで開かれ、15 日と 16 日に創立 100 周年の記念行事が組まれている。定款に書かれた目的は「溶接・接合に関する研究の連絡を行い、学術、技術の向上普及をはかり、もって文化の発展に寄与する」。会員は 2022 年 3 月時点で正員およそ 2,000 人、賛助員は 300 社を超える。
編集部が最初に引っかかったのは、この学会の名前だ。電気鎔接協会(1926)、鎔接協会(1927)、社団法人熔接協会(1936)、熔接学会(1943)、溶接学会(1960)。100 年で 5 つの名前を使い、字は「鎔」「熔」「溶」の 3 つを渡り歩いた。 「鎔」は金へん、「熔」は火へん、「溶」はさんずい。溶接という仕事の立ち位置が、金属を扱う職人技から、火を扱う工業技術へ、そして学問の対象へと動いてきたことが、名前の履歴にそのまま残っている。
1926 年の日本の溶接は、まだ補修の道具だった。1904 年に三菱長崎へ持ち込まれたアーク溶接の最初の仕事は、輸入した鋳造設備で作った鋳造品の巣埋めである。1920 年には従業員の送迎船「諏訪丸」が全溶接で造られ、自航船として世界で 2 番目だったが、平時の造船と橋梁はリベットが主役のままだった。溶接棒は 1925 年頃から国産化が始まり、終戦の頃には推定 80 社、その多くが被覆剤に浸して天日で乾かす零細工場だった。学会が生まれた年、溶接はまだ「壊れたものを直す技術」の側にいた。
そこから 100 年。第四艦隊事件で溶接は一度禁止され、戦後は「30 年遅れ」と言われ、10 年で造船世界一になり、棒はワイヤに置き換わり、機械が溶接するようになった。年表で読むと、次々に新しい技術が現れた発明の歴史に見える。だが編集部が 100 年分を横に並べて気づいたのは、別のことだった。技術が先に来たことは、一度も無い。いつも先に困った人がいて、技術は後から来ている。 そして困った人が技術を呼び、失敗し、物差しができ、道具が広がって、また新しい困りごとが生まれる。同じ場所に戻ってくるのに、戻るたびに溶接は 1 段上にいる。輪ではなく、螺旋である。いま現場で起きている人手不足と機械化とレーザーの資格の空白は、その螺旋の何周目なのか。今号は、100 年を年表ではなく「螺旋という構造」で読む。
なお同じ今日、この 100 年をビードの物語としてたどる完全版「BUILT BEAD BY BEAD/名もなきビードが、今をつくった。」を beadx.jp で公開した。物語はそちらに、構造はこの号に。併せて読んでほしい。→ beadx.jp/100years/film/
※ 詳細な出典は記事末尾へ
編集部の議論
今号はニュースではなく、100 年の話です。ハジメくん、溶接学会が 100 年前にできた時、日本の溶接がどういう位置にいたか、想像つきます?
正直、歴史は苦手で。学会があるってことは、もう立派な技術だったんじゃないですか。
違う。修理屋の道具だ。1904 年に長崎に入った最初のアーク溶接は、鋳物の巣を埋めるためのもんだった。学会ができた 1926 年でも、船も橋もリベットだ。溶接は「壊れたものを直す」側にいた。
補足すると、その 6 年前の 1920 年には三菱長崎で全溶接船「諏訪丸」ができています。自航船としては世界で 2 番目、1 番との差は 1 ヶ月でした。技術としては世界の先頭集団にいた。それでも平時の造船はリベットのままだった。ここが今号の出発点です。技術が良いから採用されたのではない。困った人が現れて、初めて採用された。
困った人、ですか。
溶接を船体に入れたのは、海軍です。ワシントンとロンドンの軍縮条約で保有量が制限されたので、同じ排水量で重武装したい、つまり船体を軽くしたい。そこで、リベットより軽い溶接に白羽の矢が立ったんです。1929 年に駆逐艦、1930 年に船体構造へ広がり、海軍鎔接規格もできた。「軽くしたい海軍」が先にいて、溶接は後から呼ばれた。
アメリカも同じ順番です。1917 年の参戦で輸送船が足りず、抑留していたドイツ船をアーク溶接で修理して戦線に戻した。それまで「補修屋の技術」だった溶接が、国家規模の実証を経て構造物に使えると認められた。第二次大戦のリバティ船 2,710 隻も同じで、平時なら数十年かかる移行が数年で起きた。「沈められるより速く造りたい」人が先にいた。
で、いまの困った人は「人が足りない現場」だ。1990 年に労働省が調べた時、溶接の作業者 21 万人に対して 6 万人足りなかった。その頃、俺は現場にいた。「人が足りない、だから機械を入れる」ってのは、その時に聞いた言葉だ。
いまと同じですね。
同じだ。2021 年の暮れには求人倍率が 5.56 倍まで跳ねて、いまも 2 倍を超えている。30 歳未満は 2019 年で 4 人に 1 人まで減って、過去最低だった。困りごとの中身は変わってない。
ここで図を 1 枚。葵さんが 100 年を並べて作った「溶接の螺旋」です。
1 周は 5 つの節でできています。1 つ目、困った人がいる。2 つ目、技術が入る。入り方はいつも補修からで、切迫が採用を決める。3 つ目、失敗する。4 つ目、失敗から物差しができる。学問と規格と検定です。5 つ目、物差しがあるから道具が広がり、量産品は機械へ、人は非定型へ寄る。そして道具が広がると新しい困りごとが生まれて、1 つ目に戻る。ただし同じ場所には戻らない。1936 年の溶接指針、1954 年の検定と 1964 年の JSQS、1995 年の溶接施工方法の確認試験方法。戻るたびに物差しが 1 つ増えて、溶接は 1 段上にいく。輪ではなく螺旋ですね。この螺旋を、100 年で 4 周した、というのが編集部の見立てです。
3 つ目の「失敗する」は、必ず通るんですか。
100 年を見る限り、必ず通っています。1935 年 9 月 26 日、演習帰りの第四艦隊が岩手沖で台風に遭って、駆逐艦の艦首が切れて流れました。死者・行方不明 54 名。主因は軽くしすぎた設計でしたが、溶接部の損傷が多かったので、翌年に艦艇の強力部材への溶接が禁止された。溶接は一度、止まってしまった。
溶接のせいにされたんですね。
そうです。でもこの失敗が、亀裂・破壊・歪みの研究を日本に根付かせた。戦後の 1964 年に日本鋼船工作法精度標準、JSQS ができますが、これは「失敗を標準に変える」文化の到達点で、米国船級協会の基準からの自立宣言でもあった。アメリカでもリバティ船が真っ二つに割れた原因を、ケンブリッジ大学のコンスタンス・ティッパーが「溶接部ではなく鋼材そのものの低温脆性」と突き止めて、破壊力学と溶接冶金学が学問として体系化されていきます。
もう 1 つ前例があります。19 世紀のボイラー爆発です。1865 年のスルタナ号の惨事を経て、翌 1866 年には検査を条件に保険を引き受ける会社が生まれました。1880 年に ASME ができ、その ASME の最初の 10 年で、爆発したボイラーは 2,000 基を超えている。そこから規格の整備が始まって、1931 年には溶接ボイラードラムの X 線検査が規格に入った。事故、検査、規格、の順番は 150 年前から変わっていません。
では、この螺旋で見ると、現在はどこに位置しますか。
3 つ目の手前です。ハンドヘルドレーザー溶接の技能資格は見当たらない、と #008 で書きました。品質と安全の問題は既に指摘されている。歴史どおりなら、この分野でいずれ大きな失敗が起きて、それを契機に資格と検査と規格が整う。この螺旋の怖いところは、物差しは失敗の後にしか来ない、ということです。
失敗を待つのか、って話だな。
そこは後で見立てに回します。
5 つ目の「道具が広がる」も、100 年で何度も起きています。被覆アーク溶接棒は職人の腕の一部を肩代わりした。1954 年の JIS 検定は、腕を紙で証明できる職業を作った。1984 年には半自動のワイヤの生産量が被覆棒を逆転した。そのたびに熟練者は「腕の価値が目減りする」と恐れたけれど、市場全体は広がり、熟練の価値は教育と検査と難しい仕事へ移った。
構造の話をすると、道具が広がるたびに「品質保証の空白」が発生します。棒の普及には検定が、半自動には施工要領書が、後から追いついた。空白を埋めたのは協会や学会や船級ですが、それを机の上だけで決めたわけではない。協会や学会と、現場の腕を持った人たちが、一緒に中身を作ったんです。1949 年に日本溶接協会ができ、1954 年に検定ができた時も、産学官が一致して動いたと書かれています。ハンドヘルドレーザーの空白が、いま正に起きている。
レーザーも、その空白の中ですか。
そうです。ただしレーザーが溶接に入ってきた入口は、螺旋の 2 つ目どおり補修でした。長いあいだ、金型の補修肉盛りや部品補修が主な出番だった。手で使うレーザー溶接機も YAG 式が 2000 年代からありましたが、2019 年頃に中国で安いファイバー式が出て、そこから一気に板金の製作現場へ広がっている。入口は補修、広がったのは製作、物差しはまだ無い。 螺旋の 5 つ目にいて、次の周の 3 つ目の手前です。
じゃあ、いま起きていることは全部、螺旋の何周目かってことですか。
整理するとこうです。人手不足は、4 周目の 1 つ目。1990 年の 6 万人不足と同じ位置ですが、1 段上にいる。前号で見た脚で歩く溶接ロボットは、4 周目の 5 つ目。量産品が機械へ渡る、いつもの動きです。レーザーの資格の空白は、5 つ目と次の 3 つ目の間。ほとんど当てはまります。ただし 1 つだけ、100 年に前例が無いものがある。
それは。
腕が、本人抜きで売られる、ということです。熟練の技術は昔から売れていました。賃金や請負として、本人が現場に立つ形で。徒弟制、検定、競技会、と技能を伝える媒体は変わってきましたが、腕そのものはずっと本人の体の中にあった。いま初めて、腕がデータになって本人から切り離され、本人抜きで複製されて売られようとしている。#010 で書いた、坂出でおよそ 20 年ぶんの溶接を担ってきたロボット技術が、他社の現場へ商品として届く、という話は、100 年の螺旋のどこにも当てはまらない。
俺の腕が、俺抜きで売られる。それは 100 年前の爺さんたちも経験してねえ。
だから、そこだけは歴史に答えが無い。誰の腕が、どうデータになって、誰のものになるか。100 年目の学会が抱える一番新しい問いは、たぶんこれです。
4 周した螺旋と、1 つの初めてのこと。今号はここまでにします。
Xデーまで、いま何合目?
BeadX Journal は、その日までの道のりを毎号同じ物差しで定点観測します。
山は動いていません。5 合目のままです。今号は定点の話ではなく、物差しそのものの話を 1 つだけ。
100 年前、日本は自分で走る全溶接船として世界で 2 番目の船を持ちながら、戦後に「30 年遅れ」と言われました。それを 10 年で返して、造船世界一になった。追いつく速さは、この国の溶接の型です。Xデーの山を、日本は人型ではなく脚で登ろうとしている、と前号で書きました。100 年の螺旋で読めば、それは遅れではなく「補修と非定型から入る」いつもの入り方に見えます。人型が頂上に立つ日と、脚のロボットが船の外側を溶接する日と、どちらが先に来るか。次の定点はそこを見ます。
100 年で、螺旋を 4 周した。同じ場所に戻るたびに、1 段上がってきた。5 周目に見えることの中に、1 つだけ前例の無いものがある。
腕が、本人抜きで売られることだ。
前号の投票
前号の 1 問「あなたの現場に、溶接ロボットはありますか?」。
答えてくれたのは 5 人。5 人とも「ない。予定もない」でした。「ある。自分も動かす」「ある。専任の人が動かす」「ない。検討はしている」は、いずれも 0 票。
5 票で業界の実態は語れません。ただ、この割れ方は前号の議論を裏側から照らしています。坂出の 8 台と 20 年、脚で歩くロボットの国プロ、他社への外販。誌面で追っている「機械が量産品を引き受ける」動きは、答えてくれた 5 人の現場には、まだ 1 台も来ていない。しかも「検討中」に入った人もいない。今号で書いた「4 周目の 5 つ目」は、大手の造船所と町の現場とで、周回が違うのかもしれません。タツさんの感想は「うちの現場もそうだ。ロボットの話は雑誌の中の話で、目の前にあるのは棒とワイヤだ」。この問いも、票が溜まるまで折を見てもう一度聞きます。
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